<はじまりは阪急から>
1957年に阪急百貨店の企業内教育施設として「阪急少年音楽隊」を設立、1969年に校名を「阪急商業学園」、バンド名を「阪急少年音楽隊」としました。
1997年に男子バンドから女子へと編成を変え「阪急商業学園ウィンドバンド」へ改称しました。
<そして向陽台に> 2001年に技能連携関係であった向陽台高等学校への移管が決定され、共同運営となる2002年に「向陽台高等学校阪急ウィンドバンド」へ改称、2003年に活動場所を西宮から茨木本校へ移し、2004年に完全移管となり「向陽台高等学校ウィンドバンド」へ改称しました。
<そして早稲田に> 摂陵高等学校が早稲田大学系属校となった2009年に再移管され「早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド」へ改称しました。
<阪急から早稲田に> バンド名は変わってきましたが、鈴木竹男隊長が作り上げてきた伝統のサウンドとマーチングスタイルはこれからも変わることはありません。
昭和32年
昭和34年
昭和35年
昭和36年
昭和37年
昭和45年
昭和48年
昭和54年
昭和56年
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昭和63年
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平成21年
平成23年
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平成26年
平成28年
平成29年
令和元年
令和2年
令和3年
令和5年
「もはや戦後でない」の言葉が生まれてから2年経た昭和32年3月15日、清水社長(当時)、現取締役相談役の発案により、かねてから準備が進められていた阪急少年音楽隊が創設されることとなった。そもそも清水社長が音楽隊設立に踏み切られたのはかつて欧米視察の際、各地で出会った少年少女の音楽隊を見て、このような音楽隊が会社にあれば雰囲気が明るくなり、社内に歌声運動が広がるのではないか。また阪急だけでなく他の職場にもたくさんの音楽隊が生まれ、音楽隊が街をパレードして平和のリズムを流すことができたら社会はどんなに明るくなるだろうか、との想いを常々抱いておられたが、小林一三翁の急逝にあい悲しみのうちに翁の自叙伝をひもといてみると、昔宝塚で歌劇を創られた時、三越の少年音楽隊を見に行って色々と教わるところがあった、というようなことが書かれてあり、時が時だけに、これは小林一三翁の少年音楽隊を創れとの遺言ではないのか、との思いにかられ阪急少年音楽隊が設立されることとなったのである。
設立に際してまず音楽隊の成果を左右する大きな問題となったのは指導者である隊長の人選であった。当時弱冠33歳の教育者、今津中学校の英語教諭で、音楽部の指揮者でもあった鈴木竹男氏を招聘しえたこと、また副隊長として当時楽器売場主任で音楽への造詣が深かった小川原久雄氏の両指導者を得たことは音楽隊の将来にとって誠に幸いであった。
文字どおりこの二人が両輪となって第一期生18名と共に苦労を重ね、音楽隊発展の基礎を創りあげたのである。
(出典:阪急商業学園阪急少年音楽隊創立30周年記念写真集)
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